栗本薫の訃報に接して

 栗本薫が死んだらしい。膵臓癌を患ったことを知った時点でもう長くはないんだろうなとは思っていたので、グインが完結しなかったことについては現時点では特別な感情はない。そういう情況なのでこの記事を書くかは迷ったけど、昔語りをして歴史を伝えるのは年寄りの役割ということで記録に残しておく。

 福岡に住んでいた頃、街中の小さい本屋でグインのアムネリスが表紙の 27 巻「光の公女」が平積みになって置かれていた。ファミコンの FF1 より前だったか後だったか忘れたが、天野喜孝は知っていて、表紙が気になって手を取ってみると、なんか百巻まで予定されていて、小さい本屋でも過去の巻もそれなりの数の在庫があって人気らしい。それなら面白いに違いないと思って読みたいと思った。
 何かのはずみに母親に読みたいから欲しいと言ったのか、それまで新聞以外の活字をまったく読まない子供に対して興味を示した本を与えられたのか憶えていないが、小遣い以外の枠でグインを買って貰えることになった(後に高校生になった頃には自分の小遣いの枠で買うようになった)。
 そうしてグインを読み始めて、それ以後「ぼくらの」シリーズや「魔界水滸伝」(これは姉が買っていたものだが)に手を出して、その後マヴァール年代記から銀英伝に行ったりキマイラに行ったりしながら、読書の愉しみを知るのと同時に読む本の幅を広げていった。ハヤカワの海外 SF に手を出すようになったのは「レダ」の影響もあった。
 当時は思春期で、代わり映えしないどうしようもない世界に飽きていたからファンタジーに惹かれたのか、単にゲーム中心だったから FF の影響なのか分からないが、グインによって今の読書癖がついたのは事実である。もしグインがなかったら他の本によって同じようなことになったのか、それとも全く違う道を進んでいたのかは知る術はないけど、グインの作者の栗本薫には感謝している。
 グインそのものは、執筆にワープロを使い始めたころからだったか、あとがきはおろか本文も変わってきていて、何か違うなあと思い始めて、大学の試験の最中だったかに出た 57 巻の「ヤーンの星の下に」を後回しにしていたら、学生時代の貧乏さも相まっていつの間にか読まなくなっていた。読まなくなった後に腐ったトマト論議やら色々な意見をネットで見かけてさらに足は遠のき、新刊が出たら本屋で裏表紙のあらすじとあとがきを斜め読みするだけになっていた。“老人になって隠居したら完結してるだろうから、そうなったら1巻からまとめて読もう。それが老後の楽しみの一つ”なんて思ってたら、120 巻を過ぎても終わる気配を見せず、あとがきにマイルストーンとして示されたタイトルも消化されないまま、グインは終わってしまった。おそらく老後に読むこともないだろう。
 何が私をグインから遠ざけたかというと色んな要素があって、これ一つというのはない。BL 的要素をグインにまで持ち込んだとか、あとがきの文章の(爆)とか無理に若者のネットスラングを使っているみっともない中年みたいだなあと思ったとか、過去巻との矛盾放置とか挙げていったらきりがないが、読み始めた当初はわくわくしていたのは否定できないわけで、自分自身の成長・変化と、グインの変化が噛み合わなかったというのがすべてなのかもしれない。
 ただ思うのは、栗本薫は歳をとって若い二十代の頃と比べて、記憶力やら集中力が落ちてないと信じてそのまま突き進んで、売れ続けているが故に他人の意見が聞きづらい状態になっていってしまったのかなあ、と。誰か一人でも強力なブレーキを踏んでくれる人がいたならば、まったく違ういまが存在したのかなあ。
 ご冥福をお祈りします。