『紫色のクオリア』(うえお久光)

 まあ SF としてある程度評価されるのは分かるけど、うーんという感じがする。いやまあ海外 SF でも同じように感じることは多々あるんだけど…。
 以下ネタバレ。





「毬井についてのエトセトラ」で、普通の人間同士も各個の見ているものは同じでも違うように感じるから『お互いに手を差し伸べる』って書いてるのに、結局ゆかりの見え方を理解する為にお互いの認識を摺り合わせるるんじゃなくて、ゆかりはゆかり、的に扱われてるのがにんとも。摺り合わせなんか書いてもおもろないわ、という話ではあるんだけど、人類って結局そういう摺り合わせの中でコミュニケーションを発達させてきたわけで、それを無視されるとなんだかなあという気分に。
「1/1,000,000,000 のキス」は一転して量子力学 SF なんだけど、結局人の意識が物質から独立したものとして扱われていてゲンナリ。並行世界やらコペンハーゲン解釈やらはまあ SF によくあるネタなんだけど、意識だけが何故か関係なく量子の法則を飛び超えるものとして扱われる。まあそうしないとネタが成り立たないというのがそうなっている原因なんだろうけど、それって SF なのかね?という。SF って科学的知見に基づいて書かれる話であって、意識がマクロ的物体を超えるなんて科学話はないのにそれを持ってこられても困惑してしまう。まあラノベとしてはありなのかもしれないけど、SF 者が SF として評価するべきものではないのではないかな、と。不幸なのは SF とラベル付けされて SF として読まれることなのか。
 ようするに何が言いたいのかというと、「クオリア」って半分似非科学だよね、と。